原野開拓から始まったゴールド農園の物語。

7人のサムライ


7人の若者が結成した「虹の会」

 今から60年以上も前のことです。青森県弘前市にある下湯口という小さな部落で生まれ育った7人の若者が岩木山の裾野に広がる原野へと向かいました。

 りんご農家の2代目という同じ境遇を持つ若者たちの夢は「日本一のりんごを作ること」でした。この夢が7人の心をひとつにし、ふるさとの山へと導いたのです。

 当時、7人の若者たちは20代前半で、農業に対し若者ならではの大きな夢と希望を抱いていました。しかし、その一方で、「日本一のりんご作り」という夢を実現することがいかに困難なことであるか十分に理解していました。だからこそ若者たちは、7人から成る自らのグループを「虹の会」と名付けたのです。

 雨上がりの空に弧を描く七色の光。その美しさにどれほど恋い焦がれても決して手にすることはできない。しかし、空を彩る虹に向かって歩み続けることはできる。“日本一のりんごという夢は虹を求めて歩む姿そのものではないか”。「虹の会」が誕生したその日、7人の若者たちはそれぞれの胸に抱く情熱を束ねるような思いで、理想に向かって歩み始めたのです。


開墾の日々




 夢の実現にあたり、若者たちがまず目指したのは、農地の拡大と新しい品種を導入することでした。当時、弘前周辺で育てられていた一般的なりんごと言えば、国光、紅玉が主でした。これらのりんご栽培のスタイルは確立されておりました。

 しかし、若者たちは国光や紅玉よりも玉が大きく、甘味も強いスターキングやゴールデンといった新しい品種を作ることを考えたのです。こうした大胆な考えは、地元の保守的な先輩たちから反対されることもしばしばでした。しかし、若者たちの心は、何ものにも恐れず挑戦していこうという勇気に満ちていました。

 計画を実行するために行ったのは農地探しでした。世の常として、若者に潤沢な資金があるわけがありません。そのため、すでに開墾された農地は高価で手が出せるものではありませんでした。

 そこで目を付けたのが、いまだ誰も鍬を入れたことがない岩木山麓の原野でした。「7人の力を終結し開墾すれば、原野も立派なりんご園になるはずだ」。7人は心をひとつにし、原野への挑戦を決心したのです。

 昭和40年、「虹の会」で共に夢を描いた7人の若者たちは、新たに農事組合法人「ゴールド農園」を組織し、岩木山麓の原野14haを購入。早速その年から農園作りに着手しました。選んだ原野は十面沢と呼ばれる場所で、それぞれが暮らす下湯口集落から25kmも離れた遠隔地でした。そのため、お金を出し合って中古のマイクロバスを購入し、みんなで開拓地へ向かうことにしました。また、廃バスを現地に置いて、作業が長引く場合はそこに寝泊まりできるようにしました。

 岩木山の東北に位置し、季節風が吹き荒れるなど厳しい気象条件を持つ十面沢での作業は苦労の連続でした。しかし、困難を可能にする若い力は目を見張る勢いで原野を開拓し、一年後には何とかりんごを栽培する土地を完成させたのです。


いよいよ始まったりんご作り



 原野の開拓が終わり、いよいよりんごづくりが始まりました。しかし、りんご作りは、春に種を蒔き、秋に収穫するといった一般の農作物のように一年で結果が出るものではありません。当たり前のことですが開拓したばかりの原野には、すぐにりんごの実を付けてくれる木など一本も生えていないのです。そのため、開拓した農地での最初の仕事は将来、実を結ぶりんごの苗を育てることでした。

 りんごは苗から育てて実を付けるまで約10年の歳月を必要とします。しかしだからといって、りんごの成長を毎日眺めているのでは、暮らしの糧を得ることができません。そこで、7人が行ったのがりんご苗の栽培と販売でした。原野の片隅で新品種の苗木を育て、それを担いでりんご農家に売り歩いたのです。
 若者たちのこうした苦労を知ってか知らずか、原野に植えられたりんごの木は年を追うごとにめきめき大きく育っていきました。

 そして昭和50年を迎える頃、遂にりんごの木が真っ赤な実を結んだのでした。こうして、ゴールド農園のりんごたちは世に送り出されるようになったわけですが、若者たちは農地を拡大し、新品種のりんごを作り出すことだけで満足したわけではありませんでした。次に挑戦したのは無袋によるりんご作りでした。

 りんごの木に花が咲き、実を結び、大きく育っていく過程で袋をかけるという作業は、昔からりんご栽培の常識でした。元来は病害虫や枝ズレを防ぐために行われた作業でしたが、現在では袋をかけることで、りんご全体が均一に赤く着色し見た目がよくなるからという理由から袋かけの作業が行われています。
 7人の若者たちはりんご栽培の常識とされてきたこの袋かけ作業に疑問を持ちました。りんごはお日様の光を浴びることではじめて甘味を増す事実に気付いたからでした。「少々色にムラがあっても、それこそが本来のりんごの姿。そして何よりも無袋のりんごこそが甘く美味しい」。

 こうして本当に美味しいりんごを作るという理想を実現するため、若者たちはりんごを袋で覆うことなく、お日様の下で育てることにしたのです。しかし、この無袋りんごを認知してもらうまでには様々な苦労を乗り越えなければなりませんでした。消費者の多くは色が悪いというだけで、美味しくないものと決めつけてしまったのです。そこで、若者たちは無袋りんごを手に全国を巡り、りんご本来が持っている健康的な美味しさを伝え歩きました。

 そして徐々にではありますが若者たちの苦労は少しづつ実を結び始めました。甘くて美味しいりんごと若者たちの情熱が多くの人の心を打ったのです。

 現在、弘前で生産されているりんごは甘くて美味しい無袋りんごが主流となりつつあります。このきっかけを作った源流のひとつがゴールド農園の7人の若者たちが起こした行動でもあったのです。


7人のサムライへ




 岩木山麓の原野に挑戦し、全く新しいアイデアでりんご作りを目指す7人の若者たちの行動は県内中で話題となりました。 そして、岩木山の原野に挑んだ勇気が讃えられ、7人の若者たちはいつしか、「7人のサムライ」と呼ばれるようになっていました。

 また、昭和49年には、日本農業の最高の賞である朝日農業賞を授与されるなど、弘前、青森の枠を飛び越えて、全国にその名を轟かしたのです。

 時がたつにつれ、ゴールド農園育ちのりんごも数え切れないほどの人たちに愛されるようになっていきました。しかし、いくら有名になったところで、若者たちの熱い思い、そして原野を開拓したフロンティア・スピリットはいつだってりんごの木の下にありました。

 その後も、葉つみと呼ばれる作業を行わないことで、さらに甘く美味しく育てる「葉とらずりんご」の栽培や、生のりんごを使った「りんごジュース」や「ジャム」などの加工品づくりなど、斬新なアイデアが次々に実行に移されました。りんご作りのプロとして、りんごの美味しさ、素晴らしさを伝えようとする姿勢が、新たなチャレンジを可能にしたのです。

 岩木山麓の原野に一本の鍬を入れてから約40年。弘前の美しい四季が繰り返されるその歳月の間、ゴールド農園では数え切れないほどの美味しいりんごが育てられてきました。「7人のサムライ」と勇ましい名で呼ばれた若者たちも今では、白い髪が目立ち、日焼けした顔にはりんごの幹のような深い皺が刻まれています。
 7人の青春と共に歩んできたゴールド農園。「日本一の美味しいりんごを作る」という7人の誓いは、いま現実のものとして、皆様にお届けすることができます。




日本一美味しいりんごを作ろう

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